超訳「嫌われる勇気」

嫌われる勇気という本を読みました。

20世紀前半に活躍したオーストリア生まれの心理学者アルフレッド・アドラーの考えをもとにして書かれた本です。全てを理解できたわけではないけれど、学ぶところの多い本でした。

アドラーの死後再びブームが来ていることから考えても、彼の理論が時代を先取りした、斬新で画期的な理論であることがいえます。

いつもどおり、超訳しました。いつもどおりだけれど、原文どおりではないけど、そこは許してね。

 

 

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われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、自分の主観から逃れることはできません。あなた自身が変われば、世界の見え方も変わります。

サングラスをしている人にとって世界は暗く見えるよね。人によって世界の見え方は違うんだよね。 

 

(引きこもりの友人に対して)彼は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくりだしている」と考えるのです。

(中略)われわれは皆、意識的にしろ無意識にしろ、自分が実現したい目的に沿って生きています。

 

怒りとは、出し入れ可能な「道具」なのです。電話がかかってくれば瞬時に引っ込めることもできるし、電話を切れば再び持ち出すこともできる。

(中略)われわれは感情に支配されて動くのではありません。

 

今のあなたが不幸なのは、自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。

 

(自分のことが嫌いで仕方ないという青年に対して)あなたの目的は、他者との関係のなかで傷つかないことなのです。では、どうやってその目的をかなえるのか?答えは簡単です。自分の短所をみつけ、自分のことを嫌いになり、対人関係に踏み出さない人間になってしまえばいい。そうやって自分の殻に閉じこもれば、誰とも関わらずにすむし、仮に他者から拒絶されたときの理由付けにもなるでしょう。

 

アドラーは、「優越性の追及も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています。劣等感も使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となるのです。(中略)健全な劣等感とは、他者との比較のなかでうまれるのではなく、理想の自分との比較からうまれます。

 

生いたちなど、自らにふりかかった不幸をまるで自慢するかのように語る人。そして他者が慰めようとしたり、変化を促そうとしても、「あなたには私の気持ちがわからない」と救いの手を払いのけるような人。こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において人の上に立とうとします。

 

 

競争のおそろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の休まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。

(中略)あなたは先ほどいいましたね。「幸せそうにしている他者を心から祝福することができない」と。それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。

 

いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

 

自らのことについてあなたにできるのは、「自分の信じる最善の道を選ぶこと」それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。

 

他者から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとってきわめて自然な欲望であり衝動です。では、そうした欲望や衝動のおもむくまま生きることが自由なのかというと、それは違います。そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。

 

自由とは、嫌われる覚悟を決めること

原文は「自由とは、他者から嫌われることである」です。 

 

たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

 

 

われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメをつかうか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。

 

「ありがとう」は、評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。人は感謝の言葉を聴いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。

 

他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。

 

他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役にたっている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」をもてれば、それでよいのです。

 

いまや人が承認を求める理由は明らかでしょう。人は自分を好きになりたい。自分に価値があるのだと思いたい。そのためには、「私はだれかの役に立っている」という貢献感がほしい。そして貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めているのです。

(中略)もし本当に貢献感が持てているのなら、他者からの承認はいらなくなります。わざわざ他者からみとめてもらうまでもなく、「わたしは誰かの役に立っている」と実感できているのですから。

 

人生とは、いまこの瞬間をダンスするように生きる、連続する刹那なのです。

 

「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、今できることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。

 

以上です。読んでくれてありがとさん!!