超訳「生きるための哲学」

生きるための哲学という本を読みました。

 

前回の愛着障害シリーズの本と同じ著者です。著者の岡田さんは少年院の精神医だそうです。

愛着障害を抱えた過去の有名人のエピソードを載せつつ、少年院の子どもたちと向き合ったなかで得られた考え方などが紹介されてありました。

お付き合いください。

 

 

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子どもにおいては、不安が強まると、親のそばを離れたがらなくなる。愛着した存在にくっついていようとする。このことは、大人にも当てはまる。体調が悪いときや、ストレスにさいなまれるとき、大人もまた、愛着行動を増やすことで、安心感を得ようとする。

 

ヘッセは親の期待からはみ出し、ドロップアウトすることで、自分を縛っていたものを打ち破ろうとしていたとも言える。

つまり、ヘッセが学校生活を続けられなくなり、自殺しようとしたことも、ドロップアウトして、すっかり投げやりで放埓(ほうらつ)な生活を送るようになったことも、別の見方をすれば、生きていくための方法だったのである。自分として生きようとするがゆえに、人は過去の自分を葬り、死のうとさえするのである。

親や養育者から受け継いだものを破壊する作業がヘッセにとっては必要だったのかもね。

自分らしく生きるために。自己破壊的な行動にでることで、新しい自分を創造しようとしたのかもしれないね。

 

良い伴侶にめぐり合えるほど幸せなことはない。伴侶が互いにとって安全基地となるか否かで、人生の質は大幅に左右される。

ニノンは、53歳のヘッセより20歳も年下だったが、ヘッセの愛読者であり、二人は精神的な部分で共鳴していた。二人とも安全基地を必要としていたがお互いがその役割を果たしあうようになる。ニノンは、実務的な処理能力にも長け、ますます声望の高まるヘッセを、優れた秘書として支えることにもなった。安全基地となるパートナーを得たことは、50代以降のヘッセの人生が、とても豊かで安定したものになることに大きく貢献した。

 

他人に求めようとすれば、期待を裏切られ、余計傷つくだけだと悟り、最初から期待しないことで、どうにかバランスをとっていることも多い。しかし心の奥底では、自分のことを理解し、ありのままに受け止めてくれる存在を求めている。人が元気に、心豊かに生きていくためには、そうした存在が、本来必要だからだ。水や空気や栄養と同じように。

 

完ぺき主義な人や自己愛の強い人は、往々にして自分の基準を相手にも求めてしまう。相手がそれにあわせ“お人形”になってくれている間はいいが、相手が自分らしさを取り戻そうとし始めると、たちまち関係がおかしくなる。

人は一人一人異なる行動の基準や価値観をもっている。ところが、つい自分と同じことを相手にも期待してしまう。期待通りにならないとき、失望や怒りを覚え、それが軋轢(あつれき)やトラブルを生む。自分がかくあるべきと思っていることを相手に押し付けた結果、ズレが生じてしまうのである。

せっかく安全基地になる人と出会っても、それを所有し、縛ろうとしたとたん、安全基地は安全基地でなくなっていく。相手の気持ちを尊重した、共感的な関係であり続けることが、安全基地を安全基地であり続けさせる。

 

相手は所詮(しょせん)別の人間だと割り切って、期待しすぎないことも大事になる。相手がわが子や愛するパートナーであっても、このことは同じく当てはまる。相手に多くを期待するほど、裏切られ、不幸になってしまう。わずかしか期待しなければ、裏切られることも減り、期待以上のことをしてもらえれば、喜びや感謝の気持ちがわくだろう。周囲に対して怒りを覚えるとき、自分が期待しすぎていないかを振り返ってみるとよいだろう。

相手の状況を見て、適切に期待をすることはいいと思うんだけどね。相手の状況おかまいなしで、自分が見たいように相手を見て、それで自分の求める基準を満たさなかったら怒るっていうスタイルだと、自分も相手も疲れてしまうよね。

 

犬を使ったある実験がある。

同じように不快な電気ショックが与えられるが、一方のグループでは、自分で電気ショックが止められる仕掛けがしてあり、もう一方のグループでは、そうした仕掛けがなく、ただ電気ショックに耐え続けるしかない。あらかじめそうした操作を加えたうえで、犬は別の実験用の部屋に入れられる。つながった二つの部屋の一方の床には周期的に電気ショックが加えられるが、もう一方の部屋の床には電気は流れない。つまり、電気ショックを逃れるためには、すぐ隣の部屋に移動するだけでよい。

ところが、実際にやってみると、自分の力で電気ショックを逃れた経験をしたグループは、難なく部屋を移って試練を避けることができたのに、電気ショックに耐える経験しかしていなかったグループは、その場にうずくまって、ただ不快な刺激に耐え続けたのである。

つまり、自主性を尊重されずに、ただ辛い運命に我慢しろとか、耐えるように教えられて、強いられてきた人は、辛い出来事があっても、立ち向かったり、克服したりすることに難しさを感じてしまうんだね。

 

安心感に守られずに育った人は、人の顔色や反応に傷ついたり、自分が受け入れられているかどうかに過剰に反応しやすい。自分の要求や言葉を拒絶されると、自分のすべてを否定されたように感じてしまい、そこを死守しようとして、かえって傷口を広げてしまう。

普段から安心感がなくて、びくびくしていたら、ちょっとした刺激に対して、過剰に反応をしてしまいがちなんだよね。

 

(ある愛着障害の男性が、すばらしい女性とお付き合いをした。男性は女性を「天使」と呼んで、甘えるように接してきた。しかしある日、女性が浮気をしていたことがわかった。男性は唖然(あぜん)として、どうして浮気をしたのか、女性とその浮気相手と3人で話し合いを行った。)

その結果明らかとなったことは、女性が一方的な献身を求められる中で、男性から与えてもらえない優しさや愛情に、いつからか飢えていたということだ。そこにあらわれた職場の男は、彼女を一人の女性として大切に扱ってくれた。

男性は、一方的に無限の愛情を注ぎ続けてくれる存在を「天使」という名で理想化しようとしていたが、それは男性の都合のいい幻想だったのだ。女性のほうも、男性の「天使」であり続けることに、いつしか疲れ、生身の女として、ほかの男の優しさにすがってしまったのである。

 

半年後、Kさんは夫と離婚した。離婚してみて、どれほど自分を押し殺して暮らしていたかを知った。最初は、親子4人で幸せだったころのことを思い出して、悲しみにとらわれることもあったが、今は毎日の生活が楽しく、これでよかったのだと思える。

元夫のほうも、営業マンとして働いているようだ。

遠慮しても誰も幸せにならない。それならば、まず自分が望む生き方をすることである。もっと自分の気持ちに素直に生きていいのである。

支配的な夫から分かれた妻について。離れることで、支配したり、支配されたりする関係から抜け出ることができたんだよね。

 

どういう恋人やパートナーと出会うことができるかは、極めて重要である。足りないものを惜しみなく補ってくれる伴侶に出会えたものは幸せである。それによって心のバランスを改善し、偏りを修正し、健康的な心の成長を取り戻すことができる。

いつも親から否定され、虐待されて、人を信じることができない人は、その人のすべてを受け入れ、肯定し、支えようとする友人や恋人に出会うことで、安心と自信を取り戻し、人を信じようとし始める。

 

 

だが、親代わりの恋人を求めようとしたときに起こりがちなことは、ルソーのように求めすぎてしまうことである。

また、その人があまりにも傷ついていて、人を信じることができないときは、恋人さえも信じられず、すべてを自分のものにしようとするあまり、恋人を困惑させ、疲弊させてしまうこともある。

 

 

手取り足取りの干渉を受けすぎた子どもは、神経質で、人の顔色ばかりうかがい、自分に自信のない青年になる。手厚い世話と多くの楽しみを与えられても、心からの満足や喜びを知らない。自分から求めたものを、自分で努力して手に入れる喜びが育っていないと、本当の喜びを味わうことはできないのだ。喜びは、主体性と深く結びついている。自分が求めるから、それは喜びとなるのだ。主体性が損なわれた人生は、空虚である。自分の人生であって、自分の人生でないように思えてしまう。

 

 

どんどん不利な状況に自分を引き込み、目を覆いたくなるような惨状にわが身を置こうとすることもある。もちろん意識してそうなったのではないが、ますます事態を悪化させるようなことを自らしてしまうのだ。それは、愚かしい破滅的な行為にも見えるが、後から振り返ると、救いを見出そうとする隠れた意志が働いていたとしか思えないこともある。というのも、とことん状況が悪くなったときに、事態が逆転し、そこから思いがけない展開が始まるということを、しばしば経験するからである。どん底まで落ち、地獄を見る体験をすることが、逆に生きようとする気持ちをよみがえらせるということは少なくない。それを「底つき体験」という。

 

1924年レニングラードは大洪水に見舞われた。ロシアの生理学者イアン・パブロフの実験室も、浸水の被害にあったが、そこには実験用の犬たちの飼育室もあった。幸い、おぼれてしまう前にかんいっぱつ犬たちを救い出すことができたのだが、実験を再開してみると、獲得したはずの条件反射が起きなくなっていることに気がついた。もう一度条件付け操作をすると、条件反射が起きるようになったが、ためしに、命に危険が迫るような状況を再現すると、また犬たちからは身についたはずの反応パターンが消えていたのである。

さらにもっと驚いたことに、極限状況に遭遇した犬は、性格まで正反対に変わってしまっていた。おとなしかった犬が凶暴になったり、暴れん坊だった犬が穏やかになったりした。まるで、心が入れ替わったように、行動様式が逆転してしまったのである。

逆転に至るためには、今までの生き方や方法がまったく通用しないという絶望的な状況が必要なのである。その意味で、絶望はとても建設的な意味をもつと言える

絶望することによって、その人は変わるかもしれないのだ。生きるために、その人の根本的な価値観さえも、変更されるのだ。

 

生きる力を強めてくれるものに、養うものをもつということがある。自分に自信がなく、何のために生きるのかわからないと、いつもふさぎがちだった人が、親となって、別人のように強く、しっかりした人物に変わっていくということは、よく経験される。

自分のためには強くなれなくても、守ってやらねばならない者のためには、われを忘れて、強くなるということが起きる。動物の世界でも、親は子を守るためなら、自分より体が大きいものが相手であろうと、一歩も引かずに立ち向かっていく。自分だけの身を守るためなら、尻尾を巻いて逃げてしまうところだろうが、子どものためなら、体をはって戦えるのである。子どもを育てている親には、そんなふうに強くなる仕組みが備わっている。

 

フランクルは後に自伝の中で、彼が生き残ることができたもう一つの要因について述べている。それは、彼が収容所に入る前から取り組んでいた著書を出版せずには死ねないという思いだった。彼は失われた原稿を再構成できるように、要点やキーワードを書き付けた小さな紙片を、服地に縫いこんで隠し持っていた。発疹チフスにかかって死線をさまよったときも、彼の心にはまだ日の目を見ていない著書のことがあった。高熱と激しい腹痛にさいなまれながら、しかも見つかれば銃殺されるという危険を冒して、別のバラックにいる内科の医師に見てもらうため、夜中に彼はそこまではっていった。ここで死ぬわけにはいかないという一念からだった。自分が成し遂げなければならない使命や責任をもつことも、生きるための意味を与え、試練を生き延びることにもつながるのだろう。

 

彼は、友人のパウル・ポラックに妻や両親、弟の死を告げながら、涙にくれつつもこう語ったという。「パウル、こんなにたくさんのことがいっぺんい起こって、これほどの試練を受けるのには、なにか意味があるはずだよね。僕には感じられるんだ。あたかも何かが僕を待っている。何かが僕に期待している。何かが僕を求めている」

「心的外傷と回復」の中でハーマンは述べている。外傷的な体験の最終的な回復は、自らが味わった運命に肯定的な意味を見出し、その体験を生き延びたものとして使命を自覚することにあると。フランクルは、まさに自らが味わった過酷な運命に、意味を使命を見出すことで、果てしない悲しみを乗り越えようとしたのだといえる。

長い虐待や強い支配を受けて育った人にも同じことが当てはまる。忌まわしい体験の記憶から、ただ逃れようとしている限りは、ただ翻弄されてるばかりで、本来の自分を取り戻すことは難しい。自分の体験したことに正面から向かいあい、自分に何が起きていたのかを見つめることができるようになって、初めて自分らしい人生を回復することができる。

 

大きな試練を乗り越えて生き抜いてきた人に出会うとき、彼らに共通するのは、運命の受容と感謝の心である。あるがままの状況を受け入れ、そこに感謝の気持ちを抱くことができる人は、出口の見えない、長く困難な日々の中にあっても、希望や意味を見出し、ささやかな喜びを支えに生き抜いていくことができる。感謝の気持ちを失ってしまった人は、不利なことにばかり目がむき、不満ばかりを感じて、自分を余計いきづらくしてしまう。目の前の損得にしか、行動の基準を見出せないことで、損得以上にもっと大事なものを失っていくのである。

 

ただし、感謝という結論が先に来すぎると、人を縛るだけの義務になってしまうこともある。良い子や良い人にありがちなことだが、強いられた感謝は、その人を不自由にし、本来の人生を奪ってしまいかねない。ときには、逆の人生を歩ませてしまうこともある。いくつもの試練を乗り越えるなかで、長い時間をかけて、いつしかたどりつける境地なのだと思う。

 

親に心理的に支配された人に共通して見られることは、強い罪悪感や自責の念を抱きやすいということである。親の意に沿わないことをするたびに「ごめんなさい」と謝り続けて育った子は、自分は無価値で、ダメな人間だと思うようになる。成功を信じて、前に進んでいくより、失敗して、非難されることのほうが頭をよぎり、のびのびとチャレンジする力や勇気がもてない。

 

家を出て親から独り立ちするということが、本当の意味で達成されるには、それなりの時間と大きな試練を伴う。親に支配されてきた人ほど、その過程は、難事業になるが、それをやり遂げないままでは、本当の自分は窒息してしまう。

 

対人関係療法をうちたてた心理療法家のローナ・スミス・ベンジャミンによれば、その人がもつ対人関係のパターンというのは、幼い頃その人にとって重要だった人物との関係を再現しているとされる。

このパターンの再現は、3つの「コピープロセス」によって行われる。一つは過去の重要人物のようになることによって、一つは、その人物があたかもその場にいて、今も監督しているように振舞うことによって、一つは、その人物が扱ったように、自分自身を扱うことによって。

 

新しく自分を獲得するためには、一旦既成の自分を破壊する必要がある。徐徐に自己形成が進んでいる場合は、それほど極端なことをしなくても、スムーズに切り替えが行われるが、親の価値観にがんじがらめになっている場合には、少々手荒なことをしない限り、その縛りを解くことはできない。優等生や良い子ほど、暴走し始めると、極端なことにはしりやすいのはこのためである。

親の支配が強ければ強いほど、そこから抜け出すためには強いエネルギーがいるんだよね。

極端に走りやすいんだよね。

 

生きるということは、すでに個人的な行為ではないのかもしれない。人が生きるとき、そこには必然的に、何人もの人間がからまりあっている。一人が抜け出すことは、手を結び合っているものの手をふりほどくということだ。手をふりほどくとき、そこには振りほどかれた者が生まれる。自分の悲しみではなく、手を振りほどかれるものの痛みに思いが及んだとき、人は自分が一人ではないのだと悟り、死を思いとどまれるのかもしれない。手を放すな、放さないぞと、意思表示しあうしか、ほかに何もできないとしても、そうしあうことが、生きるということを可能にしているのだと思う。

 

読んでくれてありがとさん!!