超訳「将たるゆえん」

梅原猛さんという学者が書かれた「将たるゆえん」という本を読みました。

古い本で普通の本屋さんには置いてないので、興味のある子は図書館で借りるか、アマゾンで買ってみてください。

歴史上のいろいろな人を研究し、かつご自身もリーダーを務めた経験がある梅原さんが考える、リーダーの資質が書かれてあります。

今回も超訳なので原文どおりではありません。許してね。

 

 

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リーダーは、明確な意志を持たなければならない。

 

聖徳太子や藤原不比等の将たるゆえんは何かといえば、彼らは他の人は決して持たない、日本の国をどうするかという意志をはなはだ明確にもっていたのである。

 

明治維新において、将来の日本について明確に見通すことのできる人間が地方にいたことは興味深い。日本の中心にいて、そして権力のある地位についているとき、かえって日本全体が見えにくいことがある。

 

リーダーはやはり、最後にはことを一人で決めなくてはならない。もとより、他人の意見を聞くことは大切である。しかし、他人の意見をよく聞くことは結構であるが、最終的にリーダーは自分で決定しなくてはならない。

 

日本人は、若いときから絶えず周囲を見渡し、仲間の動向を気づかい、仲間の中で自分がどう見られているかのみを気にして行動を決めていることが多い。このような人間の中からリーダーは育ちにくい。リーダーはやはり孤独に決定しなくてはならないが、集団意識の強い人たちに孤独な決定は期待できない。

 

しばしば一世をふうびしたリーダーは、何らかの意味で差別されている階級の出身であったり、あるいは庶子とか私生児とか、その生まれの中に何らかの傷を持っている人が多い。

そしてそのような環境のなかで生き抜いてきたからこそ、リーダーに必要な孤独に耐える力だったり、心無い非難に堪える力を強くすることができるんだよね。

 

人間には参謀としてはたいへん優秀であるが、大将となったらさっぱり役に立たない人間がいる。逆に参謀としては大して役立たないが、大将にすると真に有能な人間がいる。そういう人間の能力をよく洞察することがリーダーには大事である。

 

私は人間知、人間通、人間好きがリーダーの条件であると思う。

「人は己を知ってくれる人のために死す」という言葉がある。やはり欠点も含めて、己の性格をよく知り、そのうえで己を愛してくれる人間には、できるだけその人のために尽くそうと思うものである。

 

リーダーは小さな欠点を持っていたほうがいい。

 

私は長い間人間を観察してきたが、上に対してペコペコすることと、下に対して威張り散らすことはほぼ比例すると思う。上に対してペコペコする人間ほど、下に対して威張りちらし、また下に対して決して威張りちらさない人間は、上に対してもけっしてペコペコしない人間であるように思われる。

 

自由とか自己決定ということは、たいていの人間には重荷なのである。そういうときにある絶対者から「これはこうだから、こうしろ」と命じられれば、人間は容易に従うものである。そういう社会においては、神のようにまつりあげられている人がいる。

神のような絶対者の命令に従うことで、自己決定に伴う責任感から逃れようとしているんだよね。例えば人を殺したり悪いことをしても「~~様の命令だから」と自分のなかで言い訳することで罪の意識から逃れているんだよね。だけど、このような社会では、一人一人が自分で、何が正しくてなにが間違っているのか考えることをしなくなります。

 

リーダーはやはり、恐怖より愛を、強制より徳をその指導原理にしなくてはならないと、私は思う。

 

紫式部は「源氏物語」で、女たちにとって最も理想的なリーダーを描いたのであろうが、それはそれはたくみな鎮魂者である。

 

敗北した前代の支配者を祀ることは、はなはだ深い政治的意味を持っているのである。かつて分かれて戦った組織が、新しい勝利者によって統一されるとき、前代の支配者を祀ることは、かつてその前代の支配者に仕えた人たちを味方に繰り入れる儀式でもあるのである。

 

リーダーはいつも自分の体を、状況の最前線に置いていかなくてはならない。

 

リーダーは修羅場において千人力を発揮しなくてはならない。もちろん人格円満な、いつもニコニコしている人間が組織をまとめていくうえにおいては必要に違いない。しかし組織がのるかそるかの運命に臨むとき、ふだんはニコニコわらっているリーダーが鬼となる必要がある。鬼となることによって初めて、この食うか食われるかの戦いに勝つことができるのであろう。

このような戦いには緻密に計算された戦略が勝敗を決めるのであろうが、もう一つはっきり言えるのは、やはりリーダーの気迫であろう。

 

戦局がこうちゃく状態になっても、リーダーは決して希望を失ってはならない。あくまでことはなると信じ続けて、ことにあたらねばならない。待てば必ず機会は向こうから訪れてくるのである。機会が訪れるときをじーっと待つのである。

 

私はリーダーというものは、たとえ一つの派閥からの代表としてリーダーの地位についたとしても、やはりできるだけ派閥を解消するような方向で組織を運営すべきであると思う。

 

人間というものはいったん多少でも敵意をもった人間に100パーセント好意をもつことは難しいにしても、組織の中でその人間の才能を十分活かすことはできるはずである。私はリーダーの条件は、やはりいったん敵になった人間をどのように味方にするか、味方にできない場合にも、敵にしないかにかかっていると思う。

徳川家康のえらいところは、元豊臣氏に仕えていた大名たちをけっして敵にしなかったという点であろう。

 

組織の崩壊の原因はやはり人材の流出にもよる。組織の中の優れた人材が組織の中の処遇に不満で外に出て行く。それがおそらく組織の衰退と崩壊の原因をなすであろう。

とかく才能のある人は自負心が強くて使いにくい点がある。そういう使いにくい人間を思うように使いこなす、それがリーダーの能力である。

 

現代の日本人は、人の和を傷つけずに論争をする術を身につけなければならない。論争を避ける形で組織の和を保つとすれば、今度は外国と競争するときに論争ができないのである。外国が無理難題を日本に吹っかけたときに、それがいかにして無理であり、難題であるかを理路整然と、しかも相手を怒らせないような比喩やユーモアを交えて説得することができるとは思えない。

 

論争するとき、それはたまたまその人が論争テーマに関していま抱いている理論であり、その人の存在と人格に密着するものではないことを、相手に納得させなくてはならない。

私はやはり議論、特に日本における論争にはユーモアが必要であると思う。議論そのものを一つの遊戯のように楽しむ、それができたら、日本人は一人前であるように思われる。やはり論争はきちんとした論理と、そしてユーモアでもって行うべきであると思う。

 

(元総理大臣田中角栄さんの秘書との対談を通じて田中さんのことを知り)私が思っていたように、角栄氏は心のなかに大きなコンプレックスを秘めている人間であった。

 

利他精神の前提になるのは、やはり信賞必罰である。会社のために尽くした人間が正当に報われること、そして会社のためにあまり尽くさない人間や、あるいは損害を与える人間は罰せられるという、そういうルールが必要である。

 

まったく自利のない利他ということは、人間には難しい。短期間にはそれはありうるかもしれないけれど、長期間にはそれは無理であると思う。リーダーがいかにも質素を装い、犠牲者のような風貌をするときは、むしろ警戒すべきであろう。それは、やはり偽善の風貌であり、そして民衆をだまして、それによって権力を得ようとする、そういう場合が多い。

 

私はリーダーの条件の最後として、やはりリーダーは引き際を潔くすべしということをあげておきたい。

私は退き際が難しいというのは、リーダーにとってこの権力と金銭的報酬をともなう地位を自ら退くということが、いかにむずかしいかを知るからである。名をあげることを遠慮したいが、そういう人たちをたくさん知っている。退き際を誤ったために、組織の中で神様のように尊敬された人が、後ろ指を指されるようになったのである。

 

読んでくれてありがとさん!!