超訳「幸せになる勇気」

幸せになる勇気という本を読みました。

 

 

すべてを理解できたわけではないけれど、学ぶことの多い本でした。

今回も超訳なので、原文どおりではありません。ブイチなりの解釈で、言い換えます。

この本で多く取り上げられたキーワードに「尊敬」と「愛情」があります。ブイチの解釈では、この本は尊敬と愛情を同じものとして取り扱っています。この解釈に基づいて超訳しました。あと、本のなかで書かれていた同じような内容のものを切り貼りして、ブイチの独断でわかりやすくしました。

原文どおりではないけれど、そこは許してね。

 

 

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教育とは、介入ではなく自立に向けた援助なのです。

 

愛情なきところに良好な人間関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。

 

この世界にたった一人しかいない、かけがえのない「その人」をありのままに見るのです。さらにフロムは、こう付け加えます。「愛情とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」と

原文では「尊敬とは、その人がその人らしく成長発展していけるよう気づかうことである」です。 

 

あなたの愛情によって、生徒たち一人一人が「自分が自分であること」を受け入れ、自立に向けた勇気を取り戻すことになる。これは間違いないでしょう。

 

相手のことを信頼できるか否かは、相手のことを尊敬できるか否かにかかっています。われわれは「尊敬できる人」の言葉しか信じようとしません。ゆえに私は、先にあなたのことを尊敬するのです。たとえあなたが私を尊敬しなくとも。こう考えてみてください。尊敬のボールは、自らがそれを投げた人にだけ、返ってくるものだと。ちょうど、壁に向かってボールをなげるようなものです。あなたが投げれば、返ってくることもある。しかし、壁に向かって「ボールをよこせ」と叫んでも、なにもおこらない。

そして、この本においては「尊敬する」とは「愛する」ことです(とブイチは感じました)。

相手の存在を愛すること=相手の存在をリスペクトすること

だとブイチは考えました。 

相手の信頼が欲しかったら、先にこちらから愛する必要があるんだよね。それによって相手が自分のことを信頼するかどうかは相手次第だけれども。

 

(相手を愛するために)アドラーはこんなふうに提案をしています。まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生をもっていたら?」と考える。

 

子どもたちは残酷なのではなく、ただ「知らない」のです。命の価値を、そして他者の痛みを。だとしたら、大人たちのやるべきことは一つです。知らないのであれば、教える。そして教えるにあたって、叱責の言葉はいらない。この原則を忘れないでください。その人は悪事を働いているのではなく、ただ知らなかっただけなのですから。

 

賞賛の要求、注目喚起、そして権力争い。これらはすべて「もっと私を尊重してほしい」という、愛を乞う気持ちの表れです。ところが、そうした愛の希求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになるのです。私を愛してくれないことはもうわかった。だったらいっそ、憎んでくれ。憎悪という感情のなかで、私に注目してくれ。そう考えるようになるのです。叱責されることは、彼らの望むところです。

 

自傷行為や引きこもりも、アドラー心理学では「復讐」の一環なのだと考えます。これらの全ては「所属感」すなわち「共同体のなかに特別な地位を確保する」という目的に根ざしています。

 

叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションです。このことは、子どもたちも十分に理解しています。大人から叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうちに働きます。

 

もしも生徒たちが自立してしまったら、あなたと対等な立場に立ってしまったら、あなたの権威は崩れ去ってしまう。あなたはいま、生徒たちと縦の関係を築いており、その関係を崩されることが怖いのです。これは教育者だけでなく、多くの親が潜在的に抱える恐怖です。

 

 

(付き合いたかった理想の恋人と実際に付き合っても、すぐにあきてしまうことについて。ドイツ製のカメラを手に入れるたとえ話を引き合いに出して)

実際に手にいれてしまうと、半年としないうちに飽きてしまう。どうして手に入れた途端飽きるのか?あなたはドイツ製のカメラで「撮影したかった」のではありません。それを獲得し、所有し、征服したかっただけなのです。

 

与えられる愛の支配から抜け出すには、自らの愛を持つ以外にはありません。愛すること。愛されるのを待つのではなく、運命を待つのでもなく、自らの意思で誰かを愛すること。それしかないのです。相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛するのです。

 

なぜ多くの人は恋愛に「運命の人」を求めるのか?どうして結婚相手にロマンティックな幻想を抱くのか?その理由についてアドラーは、「すべての候補者を排除するため」だと断じます。

 

愛は「わたし」だった人生の主語を「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れるのです。

 

 

読んでくれてありがとさん!!