超訳「心的外傷と回復」

心的外傷と回復という本を読みました。

 

 

過去に虐待をされたり、戦争にいったり事件にまきこまれて心に傷をおった人が、生き残ったあと、よりよく生きるための本です。

悲惨な内容も含まれてあるし、高い本なので、大人になってから読むことをおすすめします。

心に傷をおった人の回復に対する著者の誠実さと情熱を感じる本で、間違いなく名著の一つです。

悲惨な内容は載せないで超訳するね。なるべくわかりやすく。

戦争や事件、虐待に巻き込まれて生き残った人のことを、今回の記事では「サバイバー」と表現しています。

 

 

***

 

 

ヒステリーの本質は、解離である。ヒステリーを起こす人たちは、ストレス源と向き合う能力を失った人たちである。

解離とは、ブイチの理解では、意識を嫌なものごとから離すことです。

例えば健康的な解離の例だと、授業中先生のつまらない授業から意識をはなして妄想にふけるのも、一種の解離だと思います。ストレス(この場合、つまらない授業)から意識を遠ざけて、見ないことで心を守るテクニックのことなんだよね。

 

緊張しすぎる傾向(過覚醒)は、心の傷をうけた人のストレス反応の主なものである。心の傷をこうむった人はささいなことに緊張し、驚き、反応する。

彼らは緊張の基準線が低くなっている。そして心の傷を負った人は、刺激に対して「闘争か逃走」という反応をしがちである。

 

 

幼少期に心の傷をうけた20人を調べた結果、2歳半以前に起こった事件を言葉で述べることができる人は一人もいないけれども、その体験は記憶の中に刻印されて消去できないものになっているという研究結果がある。

  

心の傷をうけた人で、解離をなしとげることができない人たちはアルコールや麻薬類を使ってそれに似た感覚麻痺状態を作り出そうとすることがある。

戦争中の兵士の行動を観察した研究者は、同じ班の戦死者数とアルコール乱用数が正比例することに気づいた。すなわち兵士たちがアルコールを用いるのは、明らかに孤立無援感と恐怖に対抗するためであろう。

 

 

心の傷は、事件の何年後になっても、もとの傷を思い出させるきっかけがあれば復活してくる力を持っている。

 

恐怖状況においては人々はだれでも、自分の心のよりどころを叫び求める。傷ついた兵士も事件に巻き込まれた女性も母を求め、神を求めて泣き叫ぶ。

心の傷を受けた人はただもう見捨てられ、ただもう孤独であり、自分の心のよりどころとのつながりを失う。

心の傷を受けたあとは、自分はどこともつながりがない感覚を、家族や地域社会など、ありとあらゆる関係にまで持つようになる。

ある心理学者は、ベトナム帰還兵は妻や恋人とうまくやれないとか、誰にも親しみの感情がわかないという訴えがごく普通であるという報告をしている。

 

安全なつながりのある感覚が、心の傷からの回復の基盤である。

 

罪悪感を覚えるのは、なんと加害者ではなく、心の傷をおった被害者のほうなのだ。

 

ベトナム戦争において、無意味な虐殺を行った兵士は、戦後、心の傷に悩まされる割合が高かった。

無意味な悪行に関わることによって、長期にわたって心理的ダメージを受けやすくなる。

 

心の傷を受けた人々は、自分自身への信頼を失い、自分以外の人々への信頼を失い、神への信頼を失う。

屈辱と罪悪感と孤立無援感という体験によって自信をもてなくなる。

人と良好な関係を築く力は、人とつながりをもちたいという欲求と人からもう傷つけられたくないという恐怖という、相反する、しかし強烈な二つの感情によってバランスを失う。

 

戦争という極度のストレス状況において、自分を見失わずストレスに強かった人は、どうも人付き合いがよく、よく考えてしかも、自分の運命は自分で切り開く能力が自分にあると強く感じている人であるように思われる。

この人たちは自分たちが参加した戦闘について無理にでもなんらかのもっともらしい目的を作り上げた。

自分を守るのに劣らず、自分以外の仲間を守ることに対しても高き責任感を示し、これは間違っていると思った命令に対しては反対し、無用の冒険を避ける人たちであった。

 

事件に巻き込まれた自分が生き延びたのは、極限状況においてもなんらかのきずなを思いうかべ、それを何とか見失わずにいれたおかげであるというサバイバーもいる。

 

取り残されて一人になることを恐れるサバイバーは、同情的な人物が一人でもそばにいてくれることを強く求める。

完全な孤立を一度経験したサバイバーは、危険を前にすれば人間のつながりがいかにもろいかを強烈に知っている。二度と見捨てられることはないということをはっきりと口にだして保障することが必要である。

 

戦闘中の兵士に安心感を与えるのは小戦闘集団である。延々と危険が続く条件のもとでお互いに身を寄せ合う小戦闘集団は、お互いに忠実で献身的であれば危険から守られるという思考を持つようになる。

離れてばらばらになることを死よりも恐れるようになる。

 

人と良好な関係を築く能力は事件によってこなごなに破壊されており、回復させる必要がある。

サバイバーの過剰な緊張からくる攻撃性がなすがままにほとばしるのを我慢しなければならないということではない。そのような寛容さは効果的でない。怒りにかられたサバイバーはその後、罪悪感にさいなまれるし、結局のところ、人と良好な関係を築く能力の再建から遠ざかってしまうからである。

 

自己の肯定的な見方を回復するには、自己尊敬をも新しく作り直さなければならない。

外傷を受けた人は、屈辱と罪悪感という問題を乗り越えて、苦闘して何とか、事件のときの自分のふるまいを公平かつ公正に言葉で表現し、評価する必要がある。

  

サバイバーは、自分が失ったものを悼むためにも他者の援助を必要としている。古典的な論文のすべてが、心の傷の解消には喪失を悼む必要があることを認めている。

 

他者と心の傷の話を共有するということが、世界には意味がある、という感覚を再建するための前提条件である。

  

心理学者は、ナチの強制収容所においてユダヤの祭日ヨム・キップールの日に断食を行った女囚のことを記している。それは監禁者が自分を打ち負かしてはいかないことを証明するためであった。

 

世界中の監禁者は、被害者を他の一切の情報源、物質的援助、感情的支持から遮断して孤立させることで、無力化し、支配しようとする。

被害者は孤立してゆくにつれてますます犯人に依存的となる。それも生命を保つために食事を得るためでなく、情報を得るためであり、感情を活かしつづけるためである。

恐れやおびえがひどければひどいほど、被害者は許されている唯一の人間関係にしがみつきたい誘惑にかられる。それはすなわち犯人との関係である。

 

人間の破壊には第二段階がある。それは被害者が生きる意志を失ったときである。これは自殺を考えることと同じではない。自殺というスタンスは積極的なものである。死という手段を用いて自分の人生を生きるのである。

これに反して生きる意志を失うというのは最終段階で、もはや自発的になにもしようとしない。

ナチの絶滅収容所でこの境地に達した人々はもはや食べ物を探そうとも暖をとろうともせず、殴られるのを避けようともせず、生きる死者とみなされた。

 

第二次世界大戦あるいは朝鮮戦争の捕虜の研究によれば、釈放後25年から40年たってもこれらの元兵士の大半はなお悪夢を身、執拗なフラッシュバックを経験し、捕虜生活を思い出させる出来事に対して極端な激しい反応を示した。

 

他の人々とのきずなを保てるという幸運にめぐまれていた政治犯は、もっとも悪魔的な条件においても強い愛着を形勢する能力は破壊されなかった。

ナチの絶滅キャンプにおいてさえも、囚人間に友情の花は咲いた。研究によれば生存者の圧倒的大多数は安定したペアの片方となっていた。これはお互いに支えあい守りあう忠実な友情の成果であって、したがって生き抜くための基本単位は個人でなくてペアであるという結論に達している。

 

子どものときに心の傷を繰り返しこうむれば、この心の傷が人格を形勢し、変形する。虐待のサバイバーは、体の正常な反応は慢性的に続く過剰な緊張のためにめちゃくちゃになっている。つねに危険である環境に適応するために、虐待的な環境にある児童はあらゆる危険を察知する超人的な能力を発達させる。

 

虐待環境において、文字通り身を隠していたと多くのサバイバーは当時を語る。彼らが安全を覚えるのは人ではなく特定の隠れ場所である。

 

子どもたちは虐待者に対して忠誠と服従を表明しようと必死になる。

子どもたちは「良い子にしていること」によって虐待的環境を生きぬこうと、努力を倍増、倍倍増する。

 

虐待者に対し被虐待児が怒りの感情と復讐のための殺害を考えることは普通の反応である。

被虐待児は問題解決ための言語的、社会的能力を欠いていることが多い。そのうえ、被虐待児は、ささいなことで敵対され攻撃を受けると予期している。

 

 

 

一般に思い込まれている虐待の世代間伝播に反して、圧倒的大多数のサバイバーは自分の子を虐待もせず放置もしない。

 

心の傷の体験の本質は何であろうか。それは無力化 disempowerment と他者からの孤立化 dis connection である。だからこそ回復の基礎は、サバイバーに対する有力化 empowerment と新しい結びつきをつくること creation of new connections である。回復は、孤立状態においてはおこらない。

 

あるサバイバーは、「よい治療者とは私の体験を本当にまともに取り上げて確認してくれ、私が私の行動をコントロールできるように助けてくれる人のことで、私をコントロールしようとする人のことではない。」と述べた。

 

回復の展開は3段階ある。第一段階の中心課題は安全の確立である。第二段階の中心課題は想起と服喪追悼である。第三段階の中心課題は通常生活との再結合である。

 

回復の第一段階の完了を告げる劇的な事件などない。心の傷を受けた人は、一歩また一歩と、自分も自分以外の人間も頼みにしてよいことに、もう一度きづきなおすものである。

 

サバイバーには、かつては所有していて外傷が破壊した価値と信条とをはっきりと口に出してもらうようにする。

 

あるサバイバーは治療者にこう言っている。「語るように励まし続けてください。語る姿を見るに忍びなくても、です。信じるまでにはずいぶん時間がかかります。私がそれについて語れば語るほど、それがまちがいなくおこったと思えるようになり、それと向き合うことができるようになる。絶えず大丈夫だといってもらうことは非常に大切です。ひとりぼっちのどうしようもなくか弱かった少女だったという感じから遠ざけてもらうことなら何でも大切です。」

 

患者の現在の日常生活にはふつう、過去の体験を開く鍵がいっぱい入っている。

 

服喪追悼の間、サバイバーはおとしまえをつけることの不可能性を直視しなければならない。安全なところで怒りを発散させるにつれて、狂おしい怒りは次第に落ち着いていく。

 

加害者から一切のつぐないを得る可能性をあきらめたとき、逆接的であるが、サバイバーは加害者から自由になるであろう。悲しみが進行するとともに、サバイバーはつぐないを極端なものでなく、もっと現実的に考えられるようになる。このことによって、患者は加害者に自分の今の生活に対する影響力を一切ふるわせることなく、正当な請求を求めることができるようになる。

 

サバイバーは自分に与えられた危害に責任があるわけではないが、自分の回復には責任がある。

逆説的であるが、このだれがみても明らかな不正義をうけいれることが有力化のはじまりである。サバイバーが自分の回復を始める方法は、回復の責任を引き受けること、現状を受け入れることである。

 

一人だけやさしく慰めてくれる人がいてその人のよいイメージが一つ残っているだけでも、喪失の悲しみのなかに沈んでゆく際の命綱になってくれるだろう。

 

服喪追悼の報酬が現実となってあらわれるのは、サバイバーが自分は悪者でスティグマを刻みつけられたものであるという自己評価をかなぐり捨て、なにも隠さなくてよい新しい人間関係に入ろうという希望を思い切って抱くようになるときだろう。

 

心の傷が完治し、これでおしまいということはありえない。ライフサイクルの新しい段階ごとに新しい葛藤が生じ、新しいチャレンジを受けるものであって、それが必ず心の傷を再び目覚めさせ、外傷体験の新たな面を明るみに出す。

けれど、そのたびにしっかりと心の傷と向き合うことで、一つ一つ、乗り越えることはできると思うんだよね。

そうやって自分と向き合う経験を積み重ねることが、人格的な成長につながると思うんだよね。

 

第二段階はサバイバーが人生に関わる希望とエネルギーとを新しく得たと感じるときをもって主な作業を完了する。

時は再び動き始めた。「ストーリーを語るというアクション」がしめくくりにいたったとき、心の傷の体験は真に過去のものとなる。この時点でサバイバーは生活を再建し、これからやりたいことをするという事業に直面する。

 

心の傷が破壊した古い自分の喪に服してきたサバイバーは、これからは新しい自分を成長させなければならない。これからは新しい関係を育てなければならない。これからは自分を支える信念を改めて発見しなければならない。回復の第3段階の仕事とはこういうものである。この仕事をしおえてはじめて、サバイバーは世界を奪還しおおせたということができる。

 

回復の第3段階になると、心の傷をこうむった人も自分が被害者であったことを認識し、自分が被害者となっていたための後遺症がどういうものであるかを理解し、言葉で説明できるようになる。これは心の傷の体験の教訓を人生に組み込む準備ができたということである。自分の力やセルフコントロールを大きくし、これからもあるであろう危険に対して自らを守り、そして信頼できると分かった人々との同盟関係を深める準備ができたということである。

 

心の傷をほのめかすものや心の傷を思い出させるものたいして相変わらず傷つきやすい自分をしばしば痛いほど自覚する。しかし、サバイバーはこの体験に積極的に立ち向かい、言語化して、体験を克服しようとする。

そしてサバイバーは危険に対して正常な反応を再建し、外傷が破壊し粉砕した行動体系を再構築するようになる。

 

I know I have myself この単純な言葉は回復の第三段階のシンボルマークにふさわしかろう。第三段階では、サバイバーはもはや自らの外傷的な過去にとらわれているという感じをもたなくなる。サバイバーのこれからの任務は、自分がなりたい自分になり、生きたいように生きるということである。

 

この時期を通じて、サバイバーは前よりも大胆に世間にでてゆくようになるが、同時に人生は前よりも当たり前になる。自分自身と再結合するにつれて、サバイバーの感じ方は穏やかになり、平静心をもって人生に対することができるようになる。

今は被害者人生に退屈し、ふつうの人生の面白さに気づく心の準備が出来上がっているものである。あるサバイバーは「スリル欲求を手放してゆくことは、私が私自信から乳離れしてゆく過程だった。わたしは裏表のないさらりとした満足を本当に少しは味わえる地点にたどり着いた。」と話している。

 

自分自身のなかで、虐待的環境によって形づくられたた面がどれかを識別し、それを手放すにつれて、サバイバーはまた、自分自身をゆるすようになってゆく。

自分の性格に加えられたダメージが恒久的なものにちがいないと感じなくなれば、このダメージを自分から識別しやすくもなる。サバイバーが自己の生活の再建に積極的にかかわることができるようになってゆけば、それに応じて心の傷をこうむった自己の記憶に対して寛大になれ、これを受容できるようになる。

 

虐待的な環境のなかで成人となったサバイバーは実際に第一の青春をもつことを拒まれた人であり、対人的なスキルがかけていることが少なくない。他の成人たちが当たり前と思っているスキルに立ち遅れていることを激しく恥じ入ったりもする。

 

心の傷がしりぞいて過去の中に入ってゆくにつれて、それはもはや親密関係をさえぎる邪魔者ではなくなる。

 

サバイバーの中には少数ではあるが心の傷の克服の結果、より広く社会にかかわる使命を授けられたと感じる人々がいる。

他者に与えるのがサバイバー使命の本質であるが、それを行っているものはそうするのは自分の治癒のためであることを感じている。自分以外の人々のケアをしているとき、サバイバーは自分が認められ、愛され、ケアされていると感じる。

 

心の傷が完全に解消することはありえないといっても、サバイバーの関心の焦点が回復という仕事から離れて日常生活の様々な仕事に移るだけで十分であるということが多い。

心の傷の解消のもっともよいものさしは、サバイバーが生活の中で楽しみを味わう能力と自分以外の人々との関係に全面的に入る能力とを取り戻しているかどうかである。

 

読んでくれてありがとさん!!

関連記事

傷つきやすいのは、才能があるから。

承認欲求は正義にいたる。