超訳「誇大自己症候群」

 

「誇大自己症候群」という本を読みました。

誇大自己症候群とは、自分を神のように思い、傲慢な態度や行動をとったり、他者に対して搾取的な行動をとる行動傾向のことを言います。

誇大自己症候群の背景は、二つだとロイチはこの本を読んで感じました。

① 病的なまでの自尊心の低さ。

② 病的なまでの安心感のなさ。

さらにその奥には、子ども時代の育ちのときの傷があります。

病的なまでの自尊心の低さに対抗するために、自分を神のように感じようとします。

また、病的なまでの安心感のなさから、安心感を得ようとして、周囲の人を支配しようとしたり、破壊しようとしたりしてしまいます。

なので、この症候群を克服するためには、自尊心と安心感を健全なレベルまで高くする必要があるようにロイチは感じます。

自尊心を高くするために、自分自身と向き合い、自分の過去と現在を言葉にすること。それによって、自分自身に対する理解を深めて、自分自身を受け入れやすくすることが大事だと思いました。

安心感を高くするために、安全基地となれるような、自分にとって特別な人との愛着を安定させること。それによって、自分が不安や恐怖に襲われたときも、その人とのつながりを感じることで、安心感を回復させることが大事だと思いました。安全基地について知りたい子はこの記事を読んでみてくださいな。

今回も超訳なので、原文通りではないけれど、そこは許してね。

 

 

<誇大自己症候群とその背景>

誇大自己症候群とは、現実的な自尊心や自信の形成に失敗し、それを補うために成長してもなお、「誇大自己」が支配的な力を持ち続ける状態と言える。

誇大自己とは、自分を神のように万能だと思い、母親らによって、すべての願望が満たされるのを当然のごとく期待する心の構造である。

自信や自尊心の低さが背景にあるのかもね。さらにその奥には、子どものころに満たされなかった思いをひきずっているのかもしれません。それを補うために、自分は特別な存在で、自分を万能な神のように思うことで、自信や自尊心の低さに対抗をしているのかもしれないね。

親が条件付きの愛情しか子どもに与えなかった場合、子どもは親の歓心を買うために、パフォーマンスをすることに必死になります。親の歓心を買えない自分には価値がないと思ってしまいます。

その考え方を大人になってからもひきずっているのかもしれません。

普段の自分、なにもしない自分には価値がなく、人からの賞賛を得ることで初めて自分には価値がでるのだと。

ただ、どんなに人の賞賛を得ても、自分のなかの無価値感は満たされないと思うんだよね。

そして、自分のなかの無価値感、自分には価値がないという感覚を克服するために、自分に対しても人に対しても傲慢になって、「自分は特別な存在だ」と思い込むことで、つまり強がることで、自分を守っているのかもしれないね。

 

誇大自己症候群の人は、その万能感や高いプライドとは裏腹に、自信のなさや現実での挫折感を抱えている。表面的には成功を収めている場合でさえも、自己肯定感が低く、強い劣等感を抱えていることも多い。その由来をたどっていくと、親からあまり愛されず、否定的な扱いを受けて育ったという背景や、祖父母や父親には甘やかされたが、肝心な母親にはあまりかわいがられなかったという状況に出会いやすい。

であれば、誇大自己症候群を克服するためには、自尊心の低さや自信の低さに対してアプローチをする必要があるのかもね。

自分の満たされない思いに対してアプローチをする必要があるのかもね。

 

万能感と並んで、誇大自己のもう一つの大きな特徴は、自己顕示性である。誇大自己は、絶えず注目と賞賛を欲しがるのである。それがないと自分の存在感も価値も味わえず、ひどくつまらないと感じ、生きている気さえしなくなってしまう。

理由はどうであれ、見捨てられ体験をしたものは、自分に確かな価値を感じられず、周囲の安心や注目を過度に求めることで、自分の価値を確認しようとする。

誇大自己の自己顕示性は幼児期にもっとも活発に認められるが、ほどよく満たされつつ、同時に慎みや節度を覚えていくことで、大っぴらな自己顕示性は、抑制のきいた自己主張に成熟していく。しかし、幼いころに誇大自己の顕示的願望が満たされず、愛情や関心の乏しさを、気を引く行動によって補う習慣を身につけてしまうと、病的な自己顕示性が、成長してからも持続することになる。

子どものころ、母親からもらえなかった賞賛や無条件の愛情を、大人になってから他者に期待しているのかもしれません。

子どものころに、母親から無条件に愛されず、母親の歓心を買うためによい子になって、パフォーマンスすることで賞賛を勝ち取るスタイルを身に着けていたら、大人になっても、過度なパフォーマンスに走ってしまうのかもしれないね。他者から注目されず、好意や賞賛を得られない自分は、ひどく無価値な存在に思えてしまうのかもしれません。そういうふうに子ども時代に強烈に感じざるをえなかったのかもしれません。

だから、病的なまでに、他者の賞賛や歓心を求めてしまうのかもしれないし、人から賞賛を得られず、逆に非難されたら、ものすっごく落胆をしてしまうかもしれません。または、他者からの非難に対して過剰反応して激怒したりするのかもしれません。

 

人からいじめられたり、見捨てられる体験をするとその不快な記憶が保存され、人を心から信用できなくなる。

つまり自分を強く傷つけられ、踏みにじられた体験が、海場、偏桃体コンプレックスに刻まれ、憎しみや怒りや恐怖という強い情動を生み出しやすくなる。誇大自己の「妄想・分裂ポジション」や「自己愛的怒り」には、前頭前野の機能の問題とともに、この海場、偏桃体コンプレックスの過剰な興奮がかかわっている。

男性ホルモンと攻撃性や犯罪行為が深い因果関係をもつことは、よく知られている。男性ホルモンによって攻撃的な本能が高められると、前頭前野によるコントロールが一層困難になるのである。

情動的な部分であるだけに、強烈にその人を、無意識化で支配するのかもしれません。そして、その情動を感じるたびに、ネガティブな感情に襲われるたびに、自分は特別な存在で周囲がクズなんだと思い込むことで、どうしようもなく低くなりがちな自分の自信や自尊心をなんとかひきあげようとしてきたのかもしれません。

 

 

<誇大自己症候群の人の行動特徴>

誇大自己症候群の人にとっての対人関係の特徴は、所有と支配という色合いを帯びるという点である。彼らは、相手を自分の思い通りにしようとする。相手の思いを汲み取るのではなく、自分の思いを押し付けようとする。相手の気持ちに関係なく、自分の意向に従わせようとするのである。

誇大自己症候群の人は、相手も同じように意志や感情をもっていることが、そもそも理解できないか、頭ではわかっていても、それに対してほとんど配慮や関心を払わない。自分の考えだけが正しくて一番よいと思っているので、それを受け入れない人は、愚かで悪い人とみなされてしまう。自分の思い通りになり、意のままに支配できる存在は「かわいい」存在であり、そうでない存在には「むかつく」のである。

情緒的な結びつきを避け、対人関係においても相手を物のように扱ってしまう。他人は自分の思い通りに利用できるものか、それ以外の無価値なものに分けられる。

相手が病気になったり、落ち込んだり、元気がないことも性能の低下であり、同情よりも怒りを催す。

前提条件がそもそも違うのかもしれません。

「自分は特別で、なにをしても許される」ということが前提なので、他者が自分の意見を聞かないということは、王様に対して歯向かうことと同じで、つまりは悪のように感じるのかもしれません。

彼にとって、他人が自分の言うことを聞かないことに対する怒りは、無法者に制裁を加える正義の怒りと同じなのかもしれないね。あまりにも自分を特別な存在だと思っているから。

 

誇大自己の万能感は、その絶対性を傷つけられると自己愛的怒りを生む。自己愛的怒りは絶対者である神や王の怒りに似ている。すべて自分の思い通りになることを期待し、自分こそ正しいという思い込みが否定されることから生じる怒りなのである。

万能感を顕示する最後の方法は、彼の欲求にうまく応えようとしない対象を破壊してしまうことである。それによって彼は、自分の力と権威を見せつけ、万能感を保つのである。

誇大自己の万能感や顕示的欲求は、いったん満たし間違え始めると、どんどん病的な方向に刺激と力の誇示を求めるようになる。自分がみじめで、非力な存在であるほど、わずか一片の炎によって大混乱を引き起こすことができるつけ火の誘惑は、強烈なものとなるのである。

破壊したり支配したりしたい欲求を恒常的に抱えているのかもしれません。

その衝動的な欲求は、社会のなかで有意義な活動に向けることで、徳へと向かう行動に昇華(しょうか)できると思います。

 

自己愛の心理学でいえば、この人形はまさに「自分のモノ」である「自己対象」だと言える。世界から切り取り「自分のもの」として所有したものだけを、安心して愛することができるという自己対象の病理が見てとれる。現実に心と意志と尊厳をもって存在する、一人の人間ではなく、被支配物、所有物に貶めることで、やっと自分を脅かされることなく、心おきなくたしなみ、味わうことができる。

ファンタジーにしろ自己対象にしろ、生の世界でない仮想の世界の方が、彼にとって安らげるものになっていたのである。

支配することでしか人とつながれないのかもしれません。人と対等な立場、目線にたって関係を結ぶことに、どうしようもなく困難を感じてしまうのかもしれません。

 

誇大自己症候群の人は、人から指図されることや偉そうに言われることが許せない。些細なことでも傷つきやすいため、人間関係に疲れやすい。同じ職場で半年も働くと、周囲の人間の嫌なところばかりが気になり始める。

 

誇大自己症候群の人は、非難に対してとても敏感である。マイペースのようでいて、評判や評価をすごく気にするのである。正面からの非難には反撃することで自分を守ることができるが、噂や風評には反撃しようがないため、非常にもろい一面を見せる。

おそらくその背景にあるのは、見捨てられ不安だと思います。人から見捨てられることを心底怖がっているので、他者の賞賛を必要とし、非難には弱いのかもしれないね。でも、いくら他者の賞賛をえても、安心感にはつながらないと思うんだよね。

不特定多数の人からの賞賛によって、自分のなかの満たされない思いを満たそうとするのではなく、自分にとっての特別な人(安全基地)との愛着を安定させることが、自分のなかの満たされない思い、空っぽな思い、自分は無価値であるという思いを埋めることに役立つと思うんだよね。

自分がどんな状況に陥っても、困ったときに助けを求められる存在がいることは、安心感や勇気を与えてくれると思うんだよね。逆にそういった存在がいないと、安心感を感じにくいと思います。

 

そもそも、こうした過酷な競争に勝ち抜き、勝利を得たものは本当に幸福なのだろうか。万能感的願望を実現したものは、本当に幸福なのだろうか。

「老人と海」「誰がために鐘は鳴る」などの名作で知られるヘミングウェイは、万能感的欲求の充足を果てしなく追及し、その試みに希有な成功を収めた人でもあった。

老いて体力、気力の衰えたヘミングウェイは、猛獣狩りや魅力的な女性を征服することで万能感を満たし、空虚をまぎらわすこともできなくなる。それは、躁的防衛の破綻を招く。へイングウェイは、彼が黒いロバと呼んだ憂鬱の発作に悩まされるようになる。そしてある日、妻の目を盗んで、口にくわえたライフルの引き金を足でひき、人生の幕をおろした。力とエネルギーに満ちた彼の人生には一番ふさわしくない最期であったが、その実は、最初から用意されていたものだったともいえるのである。

誇大自己症候群を抱えて生きる者にとって、躁的防衛の破綻が、「うつ」や「自殺」に至ることは一つの必然なのである。

躁的防衛とは、自分のなかのどうしようもない無価値感に対抗するために、いろいろな活動に取り組むことで、無価値感をまぎらわそうとすることです。より強い刺激のなかに自分を置くことで、無価値感に対抗しようとすることです。

 

 

<誇大自己の克服方法>

① 他者の喜びのために行動をする。

誇大自己症候群のベースには、愛着障害に加えて、自己愛の充足が損なわれたという状況があるとすると、その二つの課題に対する手当が必要になるだろう。

転回点となることは、自分がほかの人のために役立つ体験をすることや、ほかの人から受け入れられる体験をすることのように思える。つまり、自分ではなく他者との関係に喜びを味わうことなのである。なぜなら、誇大自己症候群にもっともかけているのは、他者という視点だからである。

具体的な方法として、とても有効で、実際に筆者も推奨し、変化のきっかけとなっているのは、子どもに仕事をさせたりすることである。勉強をやりたくないと言っている子どもに、無理に勉強をやらせるよりも、家事や作業をしたり、外で働いたりして、汗を流し、役に立つ経験をすることが、人間としての成功につながる。

支配したり支配されたりするのではなく、他者の喜びのために行動をすることが、誇大自己症候群を克服するための方法の一つみたいです。

他者の気持ちに共感することにつながると思うんだよね。

 

②安全基地との愛着を安定させる。

困ったときに助けを求められるためには、安全基地を利用するうえでのルールやマナーを守ってもらうということも必要になる。ことに自己愛に偏りを抱えているケースでは、こうした点を守り、安全基地を壊してしまわないことも、その人自身の成長のためにも重要である。その点をよく説明したうえで、ルールについて取り決めておくと、一層意味があるだろう。

ただ制限は基本的に、必要最小限にとどめるべきである。安全基地の本質的な特徴は、やさしさであり寛容さであり、その人を特別な存在として大切にするということである。われわれは特別扱いするのはよくないという「平等主義」に染まりがちだが、こと愛着に関しては、特別扱いすることが必要なのである。母親は、我が子と、他人の子を同じように扱ったのでは困るのである。

その人のなかに自己対象としてしっかり取り込まれた母親の幻影は、その人の守護神となり、力の源泉となって、その人を守り続ける。偉大な人物には、愛情深く賢明な母親の存在があるものだ。そうした母親は現実の中では、支配的にオーバープレゼンスすることなく、控えめにその人を支え、見守っている。

それにしても、なぜ愛着が安定すると、子どもの情緒的な安定だけでなく、行動や衝動性まで改善してしまうのだろうか。近年わかってきたことは、愛着の安定と振り返る能力が密接に関連しているということだ。愛着が安定すると、この振り返る力が高まるのだ。振り返る力には、自分のことを振り返り、反省する能力だけでなく、相手の立場にたって気持ちを汲み取る共感能力も含まれる。自分を振り返る能力も相手の気持ちがわかる能力も、どちらも行動をコントロールする能力をたかめる。

 

③自分の過去と向き合い、分析し、言葉にする。

誇大自己症候群が一つの脱皮を遂げるとき、自らを振り返り、自分という存在を再構成する作業が必要になる。そうしたプロセスは、自分自身とのかかわりの中だけでは達成することが難しい。他者とかかわることによって、自分の特殊性や偏りというものが、他者を介して照らし出されることのほうが多いからだ。他者と向き合う中で、絶対的なものに思えていた自分というものを、相対的な視点で眺められるようにんっていく。されにそれを助けるのは、対話である。対話には二つある。書くことと語り合うことである。書くことは自分自身と対話することであり、語ることは他者と対話することである。対話によって人は自分をさらに客観的な目で振り返りやすくなる。

徐々に成し遂げられることは、ある傷つきと偏りをもった存在である自分を知り、自分が向き直ってこなかった部分も含めて、すべてを自分として受け入れなおすということである。自己の再認識と再統合という過程を繰り返す中で、自分の中のさまざまな可能性に命が吹き込まれ、傷やゆがみでしかなかったものも、現実的な力となっていく。

自分と向き合い、自分を受け入れる作業を行うことが、自分のなかの無価値感を克服する助けになることってあると思うんだよね。

 

 

<自己愛性症候群を克服した先にあるもの>

ガンジーは最初からインド人全体のために、粉骨砕身しようとしたわけではない。ガンジーの社会意識、民族意識の芽生えとなる体験は、当初、彼の個人的なプライドを傷つける体験だった。それは、義憤というよりも私憤であった。人一倍自尊心が強く、潔癖な彼は、他の多くのインド人が仕方ないとあきらめ、引き下がっていたことに対し、同じように妥協することを拒んだのである。

その気持ちは多くの人々の苦しみ、悲しみをその目で見て、味わうことによって、また多くの人々と語り、気持ちや考えを共有することによって、ますますかっことしたものになっていった。一個人の決心は、一個人を超えた使命に変容していくのである。誇大自己症候群が、偉大な魂に生まれ変わるとき、私憤が義憤へと変わるプロセスを経る。それは、一個人が他者や共同体に一体化し、殉じようとする過程でもある。そうした変容によって、誇大自己症候群は真のリーダーや聖者となりうるのである。

誇大自己症候群を抱えている人がそれを克服する道は、自分のためではなく、人のために生きることの喜びを知ることにある。誇大自己症候群のもっとも幸福な昇華は、人のために生きる喜びに目覚め、そこに己を活かす場を見出すことでもある。職業的なかかわりの中であれ、家庭的なかかわりの中であれ、社会奉仕の中であれ、さらには政治活動や表現を介した仕方であれ、自分を超えたところで生きることに本当の喜びを見出したものは、そのかかわりの中で、おのずと癒され、均衡がとれるようになり、誇大自己症候群を克服していく。

誇大自己症候群の人の、プライドの高さや傲慢さは、自尊心や誇りの高さに昇華することができると思うんだよね。いい意味での、貴族意識につながると思います。

悪い意味での貴族意識は、他者をクズとみなし、自分の過去の栄光とかにあぐらをかき、徳のある行動を何一つおこなわなかったり、傲慢な態度をとってしまうことです。

良い意味での貴族意識は、自分はすばらしい人間だと思い、その思いのもと、すばらしい自分にふさわしい、すばらしい行動を、つまり徳の高い人にふさわしい、徳のある行動をしようとすることだとロイチは思います。

 

読んでくれてありがとさん!!