超訳「マインドコントロール」

マインドコントロールという本を読みました。

 

 

この本は、人をマインドコントロールするための本ではありません。人からマインドコントロールされないで、自分らしく生きるための本です。

マインドコントロールを受けた結果、テロ行為をしたり、犯罪行為をしてしまった人たちを分析して、その原因やマインドコントロールされることを防ぐための方法がかかれてあります。

別の本にも書いてあったけれど、結論から言うと、マインドコントロールされないために重要なのは、信頼できる人とのつながりでした。

薄い本ですが、中身はかなり濃かったです。

この本を読んで感じたことは、健康的でタフな人でも、状況によってはマインドコントロールされうること。そしてカルト宗教やテロリストのような反社会的な組織だけでなく、健全で一般的な組織でも、マインドコントロールの手法が利用されているということでした。

今回も超訳します。原文どおりではないけれど、そこは許してね。

 

 

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(テロリストとなったものは、実はエリートで社会的に恵まれた人たちが多かった。彼らの共通点として)

一見するとエリートで恵まれた階層に育ち、将来も有望に思える彼らであったが、重要な共通する特徴がいくつか見出された。

一つは理想主義的で、純粋な傾向だったこと。また、もう一つは、彼らは社会でうまくやっているように見えていても、実際には社会で生きることに苦痛や困難を感じており、あるいは、社会に対して不信感を抱いていたということだ。

 

 

トンネルは細く長い管状の通り道で、外界から完全に遮断されている。入り口を入れば、後は出口まで光はない。そこには、ふたつの要素がある。外部の世界からの遮断と、視野を小さな一点に集中させるということだ。トンネルの中をくぐりぬけている間、そこを進んでいくものは、外部の刺激から遮断されると同時に、出口という一点に向かって進んでいるうちに、いつのまにか視野狭窄(しやきょうさく:視野が狭くなって、特定のものしか目に入らなくなること)におちいる。

若者をテロリストに育て上げる場合にも、このトンネルの原理がうまく活用される。志願者は、小集団で一緒に暮らし訓練を受ける。寝起きを共にし、同じ釜の飯を食い、同じ目的に向けて教育や訓練を施される。テレビも新聞もなく、教え込まれる訓練と仲間との接触だけが、すべての刺激となる。小集団でともにくらすことによってうまれる結束が、彼らの行動をさらに縛っていく。もはや後に退くことは仲間を裏切ることであり、前に進むことしか許されないのだ。

社会的生き物である人間にとって、所属する集団から認められることは、命よりも重要なことのように感じられる。所属する集団から見捨てられることは、死よりも辛い。

仲間はずれやいじめを受けたものが、死を選ぶことも珍しくないのも、そこが原因だ。その人が狭い逃げ場のない世界に生きていればいるほど、仲間はずれやいじめは、死よりも辛い責め苦となる。

こうしたトンネルの行き着くさきは、テロ行為だったり、犯罪行為なんだよね。

 

こうしたトンネルは、危険な目的に利用されるだけでなく、実は世間的には健全と思われている目的にも利用されている。たとえば、スポーツチームやクラブに所属することも、ある種のトンネルに入ることだ。難関校を目指して受験のための進学クラスに入ったり、優秀な子どもたちをあつめた塾にかようことにも、トンネルの要素がある。

 

他者を心理的に支配、操作しようとするものには、独裁者であれ、破壊的カルトの教祖であれ、DV夫やパワハラ上司であれ、支配的な親や、同級生をいじめることに快楽を見出す小中学生であれ、基本的に同じ特徴がみられる。

病的なナルシズムである。

彼らは他者を、支配か利用するものととらえる。なぜなら、いびつなまでに自己中心的で、他者を軽蔑する人にとって、一人の人間も、冷蔵庫やベッドとさして変わらない存在だからだ。思い通りに操作して、利用する以外に何があるだろう。

彼らは弟子や礼賛者を必要とする。自分の病的なナルシズムを支えるために賞賛や尊敬を必要とするのだ。

原文では、病的なナルシズムのところは、自己愛性パーソナリティとかかれてあります。

 

愛着不安の強い人は、一旦そこに依存関係ができてしまうと、その存在なしでは自分は生きていけないと思い込んでしまう。ちょうど薬物依存の患者が薬物なしでは生きていけないと思い、どんなに害が生じようと、薬物にしがみつこうとするのと同じように、百害あって一利ない相手であっても、しがみつくしかないと思っている。その人にとっては、他に選択肢などないのである。

こうした行動の背景には、他人の支えがなければ自分は生きていけないという思い込みがある。自己評価が低く、実際には高い能力や魅力を備えていても、自分だけでやっていけないと思い込んでいる。強い意志をもった存在に頼らないと、安心できないのである。

こうした性格がはぐくまれる背景には、幼いころから、自分を過度に押さえ、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。

 

不安定な愛情環境で育つと、愛着も不安定になりやすいが、ことに親の愛情が気まぐれだったり、急に拒絶的になったりして安定性にかけていたり、うるさく否定的なことばかり言われたりすると、子どもは大人になってからも人との関係性で強い不安を慢性的に感じるようになる。

それに対して一貫して関わりや関心が乏しく、ネグレクトや放任の状態におかれているという場合には、子どもは親の反応を期待しなくなり、親とのかかわりを自分から求めなくなる。こうなると子どもは大人になってからも、人と親密な関係を築こうとせずに、孤独を求める傾向になる。

人によっては両方が混ざり合い、人との親密な関係を避けながら、同時に、人の顔色を気にし、人に認められようと神経をすりへらすという状態を生む。

人との関係の築き方は、最初、母親との関係の中ではぐくまれていくが、それが基本となって、他の対人関係にも適用されていく。そのため、母親との間で成立した関係の築き方は、すべての対人関係の土台となる。

親との関係で安心できず、対人関係で不安が強いスタイルを身につけると、大人になってからも他の人との関係で強い不安を感じる。依存性パーソナリティの人は、この愛着不安が強いのが大きな特徴である。

愛着不安が強い子どもは、すでに4,5歳ころから、親の顔色を見て、親の機嫌をとるようになったり、親を自分から支えようとしたりする傾向が多い。

まるで子どものほうが、親の保護者であるかのように、親を慰めたり、相談相手になったりすることもある。かいがいしく家事を行ったり、大人のようなアドバイスをする。本来なら子どものほうが甘えなければならないのだが、その関係が逆転してしまう。相手に合わせ、相手の機嫌を損ねないようにふるまうという行動スタイルを、幼いうちから身につけてしまうのである。

ことに幼いころや子ども時代に、安心できない環境で育った人は、不安が強い性格になりやすいだけでなく、人の顔色を気にする傾向や他人に依存しようとする傾向も強まり、人から支配されやすくなる。

 

不安定でいびつに肥大したナルシズムは、マインドコントロールする側の問題として指摘したが、実は、マインド・コントロールされる側の問題としてもとりあげられている。

非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインドコントロールされてしまうというケースが増えている。

彼らは、一方では心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な妄想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。

人を支配しがちな人も、支配されがちな人も、似ているんだよね。自信のなさや劣等感を抱えていること。愛着不安が強くて、人間関係で強い不安を感じやすいこと。信頼できる人とぬくもりのあるつながりをもっていないこととかね。

 

同じ人であっても、マインドコントロールを受けやすいときとそうでないときがある。いつもの本人なら餌食になることはないのに、どういうわけかその時は、マインドコントロールの罠におちいってしまったというケースが少なくない。

そこに関わってくるのは、信頼できる人とのぬくもりのあるつながりの脆弱さである。

信頼できる人とのつながりが希薄で、孤立感を感じていると、怪しい人からの勧誘とかにのってしまうのだよね。

 

治療的なプロセスでは、心に潜んでいる葛藤を自覚させ、言語化という理性的な操作を行うことで、感情の渦に巻き込まれない客観的な視点を取り戻そうとする。他者だけでなく、自分をも振り返ることで、自分の身に起きている事態を、統合的に見ようとする。それによって、極端な思い込みや攻撃に走るのではなく、他者や外なる世界とのバランスの良い折り合いをつけようとする。

よく日記を書くと、気持ちが整理されるという話を聞いたことがあります。もやもやしている気持ちを文字にすることで、気持ちが整理されて、マインドコントロールに対する耐性をつけることができるんだよね。

 

過酷な環境に隔離され、拷問を加えられ、思想改造や洗脳をうけた場合でも、信念を貫き、マインドコントロールを免れる人もいる。彼らに共通することは、しっかりとした所属意識をもち、それといったいのものとして、揺るぎない信仰や信念を身につけていたことである。彼らは孤独で、誰も助けてくれず、拷問や飢餓や苦痛にさらされながらも、決して一人ではなかった。彼らを所属する家族や共同体と結び付けていたものは、しばしば祈りという営みであったという。祈ることは、神という絶対者だけでなく、愛する者とのつながりを感じる行為でもあったのだ。

 

マインドコントロールの問題を考えるときに、常に忘れてはならないのは、それはコントロールするものからの一方的な操作や支配ではないということだ。コントロールされてしまうのは、それを求める気持ちをもつからでもある。強い確たる存在に同一化したいという願望が、マインド・コントロールを生むのである。

 

依存する気持ちの根底にあるものは、多くのケースで共通している。大部分のケースでは、愛情やつながりを求める気持ちと自分の存在や価値を認めてもらいたいという思いが関わっている。つながりと自分の価値に対する欲求。それは社会的生き物である人間の二大欲求といってもいいだろう。カルト宗教にしろ、反社会的集団にしろ、薬物やパートナーとの依存的関係にしろ、そこから脱出して、自立を成し遂げるためには、本来あるべきつながりを回復し、また、その人の自己価値をもっと健全なかたちでとりもどす必要がある。そのために必要なステップとして、行わなければならないのが、信頼できる存在とのつながりの確立である。

 

読んでくれてありがとさん!!