超訳「愛着障害」シリーズの二回目です。
今回も、以下の二つの本の超訳を行います。
今回のテーマは「愛着障害の背景」。前回の記事でも触れたけれど、愛着障害は、子ども時代に親や養育者との愛着が不安定だったことからうまれます。
今回はそのことについて詳しく書くね。お付き合いください。
かつて進歩的で合理的な考えの人たちが、子育てをもっと効率よく行う方法はないかと考えた。その結果、一人の母親が一人の子どもの面倒を見るのは無駄が多い、という結論に達した。それよりも、複数の親が時間を分担して、それぞれの子どもに公平に関われば、もっと効率が良いうえに、親に依存しない、自立した、素晴らしい子どもが育つに違いないということになったのである。
その「画期的な」方法は、さっそく実行に移された。ところが、何十年もたってから、そうやって育った子どもたちには重大な欠陥が生じやすいことがわかった。彼らは、親密な関係をもつことに消極的になったり、対人関係が不安定になりやすかったのである。さらにその子どもの世代になると、周囲に無関心で、何事にも無気力な傾向が目立つことに、多くの人が気づいた。
いくら多くの人が、その子をかわいがり、十分なスキンシップを与えても、安定した愛着が育っていくことにはならない。特定の人との安定した関係が重要なのであり、多くの人が関わりすぎることは、逆に愛着の問題を助長してしまう。
これは、イスラエルの集団農場のキブツで実際に行われた事例です。同じキブツで育った子どもでも、夜両親と一緒に水入らずで過ごした子どもは、その悪影響をだいぶ減らせたそうです。
ここからわかることは、愛着とは不特定多数の人との関係では満たされないということです。その子どもにとって、特別な一人の人とのしっかりとした結びつきが、愛着につながるんだよね。
抱っこはスキンシップという面と、「支え、守る」という面が合わさった行動である。よく抱っこされた子は、甘えん坊で一見弱弱しく見えて、実のところ、強くたくましく育つ。その影響は、大人になってからも持続するほどである。
動物は、子育てのときに言葉を使いません。それでも、親子の間にはしっかりとした愛着が発生します。
つまり、愛着をはぐくむためには、言葉のコミュニケーション以外にも、「触れ合い」が大事なんだと思うんだよね。
それも、やすらぎのある心地よさのなかで抱っこされることが大事だと思うんだよね。
抱っこされても落とされるかもしれないとか、つねられるかもしれないとか、両親がいつも喧嘩しているとか、やすらげるような環境じゃなかったら、子どももびくびくしてしまって、親や養育者に心を許すことができないよね。安定した愛着をはぐくむことに難しさを感じてしまうよね。
守ってくれるはずの親から虐待をうけ、安全が脅かされるという場合、子どもは親を求めつつ、同時に恐れるという状態になる。しかも、親がいつ暴力や言葉による虐待をくわえてくるかわからないといった状況は、子どもにとって予測も対処も困難である。ただ、「自分は無力で悪い存在だ」という罪の意識や自己否定の気持ちを抱えさせられてしまう。
どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛し、求めようとする。そのため、深く傷つきながらも、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に気持ちが向かう。自分がダメな子だから、親は愛してくれないのだ。そう考えて納得しようとする。
母親との愛着が欠如していても、それを補うだけの安定した愛着関係を、父親などの養育者との間でしっかりもつことができれば、その悪影響を免れることも可能だ。母親との愛着が安定したものであっても、愛着していた父親がいなくなったり、両親の間でけんかが繰り返されたりすれば、どちらの親にも愛着しているがゆえに、子どもは傷つき、通常の愛着の仕方ではなく、反抗したり、無関心になったりすることで、傷つくことから自分を守ろうとし始めるだろう。そうした体験は、その後の愛着スタイルに影をおとすことになる。
つまり愛着の問題は、母親との関係だけを取り上げてことたれりとされるものではないということだ。
ごく幼いころに母親との離別や死別を経験した場合でも、代わりの養育者によって愛情が十分補われれば、その影響は軽微となる。逆に過保護に育てられたり、複数の養育者が関わったりすることによってマイナスの影響が生じるケースも少なくない。母親の代わりをするということは容易なことではない。
子どものころから両親が安全基地として機能せず、気持ちを聞いてもらうこともあまりなかった女性は、自分が人から優しくされる価値もない、つまらない存在だと思い込んでしまった。その思い込みのために、人に接するときに過度に気をつかうのだが、自分のことは何も話せないということになってしまった。
「自分はクズでどうしようもない人間だから両親に愛されないんだ」と考えて納得することで、親を攻撃することを防いでいるんだよね。攻撃の矛先を自分に向けることで。
こうなると、自分に自信をもつことが難しくなってしまいます。
菜穂さんに話を聞くと、母親にはずっと以前から、本音で話すことや相談することはなく、いいことだけを伝えるようになっていたという。どうしてなのか、その理由を問うと、本当のことを伝えれば、母親は過剰反応し、責めたり干渉したりしてきて、大変になるのがわかっていたからだという。
菜穂さんは、お互いに情緒を通わせて、共感しあうコミュニケーションのなかでなく、母親のルールを一方的に押し付けられ、支配されて育ったのである。いわば「母親がルール」であった。そうした場合、子どもは母親の顔色を見てそれに合わせる「(親にとって都合の)いい子」になるか、それに徹底的に反抗して、「悪い子」になるかである。
親が情緒不安定だと、子どもは本音で話しをすることをためらってしまうんだよね。子どもにとって、親が荒れ狂うのは見たくないじゃない?
だから、親の顔色をみて、それに合わせることを学んでしまうんだよね。こういうふうに育った子どもは、大人になっても人の顔色に敏感になりやすいんだよね。
過保護になってサポートを与えすぎ、子どもの主体的な探索行動を妨げたのでは、子どもにとって良い安全基地でなくなる。安全基地とは、求めていないときにまで縛られる場所ではないのである。それでは、子どもを閉じ込める牢獄になってしまい、依存的で、不安の強い、自立できない子どもを育ててしまう。
子どもが求める子育てをすることと、子どもの都合を無視して、親がやりたいように子育てをすることは違います。
そして過保護は、子どもが求めている子育てではなく、親の都合で、自分がしたいように子育てをすることに含まれます。そこに、子どものことを尊重する視点はありません。
自分のことを尊重してくれていない、大事にしてくれていないと感じた子どもは、悲しみを心の底に抱えるようになります。
例えば愛着障害を抱えていたアメリカの作家のヘミングウェイは、子どものころに、母親の趣味で、男の子なのに女装させられて育てられた経験があります。その体験は彼の心のなかに影を落としました。
次回は、愛着障害の人がしがちな行動について書きます。次回も読んでくださいな!
読んでくれてありがとさん!!