自分をコントロールできないものに、自由はないのだ。
ピタゴラスの言葉だそうです。
みんなは、「自由」という言葉にどんなイメージを持っているかな?
例えば、親元から離れて一人暮らしをすることが「自由」だと思う子がいるかもしれないね。
例えば、牢屋に閉じ込められて暮らすことを「不自由」だとしたら、牢屋から出ることを「自由」だと考える子もいるかもしれないね。
「自由とは環境に左右されるもの」 これもひとつの事実だと思います。
ただ、自由のなかには、「環境に左右されないもの」もあるんだよね。
今日は、その話をするね。
昔、ヨーロッパで戦争があったときに、敵の国につかまって、強制収容所に入れられた人の本を読んだことがあります。
そこでは、ご飯をほとんど与えられませんでした。食べるものがなくてみんなやせて、ほとんど骨と皮だけになって生きていたそうです。
だれかが病気になっても、治療してもらえなかったので、収容所では病気がはやってみんな苦しんでいたそうです。
ほとんどの人は自分が生き残ることだけを考えていました。周りのことを配慮する余裕はもはやありませんでした。
それでも、そんなひどい環境のなかでも、自分のなけなしの食料を自分よりも弱い人に分け与える人がいたそうです。
周囲に明るい言葉をかけて、まわりを励ましていた人もいたそうです。
ひどい環境におかれて、食べるものがほとんどなくて、自分が骨と皮だけになったときですら、自分のなけなしの食料を自分のために使うか、他の人のために使うかの自由はあるんだよね。
ほとんどの人はその自由を放棄して、自分のために食料を使いました。自分に自由が与えられていることに気づかない人も多かったと思います。
だけど、なかには、自分の欲望をコントロールして、食料の使い方を自分で選ぶ人もいたんだよね。
「自由な人」ってきっとこういう人のことをいうと思うんだよね。
環境や状況がどうであれ、自分で自分の道を選んで決める人のことをいうと思うんだよね。ブイチの考えだけれど。
「環境が悪い」ということは簡単です。
けれど、今の自分の状況を環境のせいにしても、なにも変わらないんだよね。
例えば、親の性格がひん曲がっていたから、自分もひん曲がった性格になったという子がいるとします。
だけど、ひん曲がった性格をしたうえで、どういきるかはその子しだいなんだよね。
ひんまがった環境でひん曲がった性格のままに、ひん曲がって生きるのか、それともひん曲がった環境を受け入れたうえで、自分なりにまっすぐ生きようとするのか、自由はもう、与えられています。
読んでくれてありがとさん!!
答えです。探してくれてありがとさん!!