自助論という本を読みました。
生まれや育ちに恵まれなくても、努力をすることでそれらを乗り越え、良い人格を手に入れた人たちの話が満載されています。
あらためて、努力の大切さを思い知らされた一冊でした。
今回も、超訳するね。お付き合いください。
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成功か失敗かを選ぶことはできないが、われわれにはもっとほかにすべきことがある。それは成功にふさわしい行いである。
安楽や贅沢は、困難に取り組んだり、立ち向かったりするのに役立ちはしない。また、エネルギッシュで行動的に生きるために必要とされる自信も生まれない。
たしかに、これまで貧困な生まれは不幸だとされてきたが、強い自助の精神があれば、貧困を天の恵みに変えることができる。貧困にあえぐからこそ、人は身を起こし、世界と向き合っていくのである。同じ境遇でも堕落して安楽に走るものもいるが、正直で誠実なものは強さと自信、成功を手にするのである。
トクヴィルは妻のマリーにとても世話になっていると感謝をあらわした。彼女が短気を起こしたりなどせずに、研究に専念できるよう気遣ってくれたおかげで、成功できたというのである。トクヴィルの考えでは、高潔な女性は知らず知らずのうちに夫の人格も高めるが、卑しい性質の妻は、夫の性質を確実に堕落させる傾向があるという。
牛痘が天然痘の予防になるかもしれないという考えを医師仲間にすると笑いとばされ、そんな話をしつこく続けてわれわれをわずらわせるのなら、医学界から追放するという脅しまで受けた。その後ロンドンで幸運にもジョン・ハンターのもとで勉強することになったとき、ハンターに自分の考えを話してみた。この偉大な解剖学者の助言は独特のものだった。「考えるな、やってみるんだ。辛抱強く正確に」
法律家のへイルは、著書の「黙想」を巡回裁判に出かける道中で書き上げた。音楽家のバーニー博士は、自分の生徒の家をまわりながら馬上でフランス語とイタリア語を学んだ。詩人のカーク・ホワイトは、弁護士事務所への行きかえりに歩きながらギリシャ語を学んだ。さらに私の知り合いの地位の高い人物も、マンチェスターの通りを使い走りとしてメッセージを運びながら、ラテン語とフランス語を学んだという。
実際のところ、自制心と努力が必要とされる駆け出しのころに、金銭欲だけで勤勉に仕事に励み続けることなどできるものではない。
ミケランジェロは儲けを得るために自分の作品をどうにか世に出そうと苦心している画家について意見を求められたさい、「金持ちになりたいと強く思っているうちは、いい絵を描けない」と言った。
道なくば、作るのみ
ナポレオンが好んだ格言のひとつに「真の賢者とはしっかり決心できるものである」というのがある。周りから突出していた彼の人生そのものが、ためらいなく強く決意すれば、どこまでのことを達成できるかを鮮やかに示している。
ナポレオンは身も心も戦いに捧げ、すべての力を注ぎこんで、愚かな統治者たちとその国々を次々と破った。軍の行く手をアルプス山脈が阻んでいると聞いたときは、「アルプスなど問題ではない」と言い、シンプロン峠に新しい道を作ってしまった。ナポレオンは言った。「不可能という言葉は愚か者の辞書にしかない」
「嘘は借金の背中にしがみつく」と言われるように、借金のある人が誠実であるのは難しい。返済を待ってもらおうと苦しい言い訳をするうちに、ありもしないことをでっち上げざるを得なくなる。
まずは貧乏にならないように手当し、それから借金をしないことを指針にすべきだ。貧乏にだけはならないと心に決め、できるだけ出費を抑えることだ。貧乏は人の幸福にとって最大の敵だ。自由が奪われ、正しい行いをしようにもできなくうなる。質素倹約は、穏やかな生活だけでなく、善行の基盤にもなる。助けを必要としている人が、他人を助けることはできない。余裕があってこそ、人に分け与えることができるのだ。
戦えることだけが将校の資格ではない。戦うだけならブルドックでもできる。約束を守ること、払うべきものを払うこと、そういった名誉にかかわることこそが、本物の紳士として、軍人としての立場を輝かしいものにするのだ。
若者は自分自身を知る必要がある。自分の思考や行動を観察して、それが自ら定めた基準と合致しているか確認するのだ。自分を知れば知るほど謙虚になり、自分の強さを過信することがなくなるはずだ。
黄金よりも知恵を求めよ。知恵はルビーに優る。この世で望みうるいかなるものも、知恵には及ばない。
注目に値するのは、ライトが鋳物工場の仕事で得られる少ない収入だけで、社会から見放された貧しい人々を数多く救い出したことである。彼の年収は100ポンドで、労働者の平均にも満たなかった。そんなわずかな収入のなかから、犯罪者たちに多くの援助をしたのである。義務でも打算でもなく、ただ人を助けたいという人間なら本来だれでも持っている奉仕の精神が、彼を行動にかりたてたのだ。
彼は家族もきちんと養い、質素倹約に努めて、老後のための貯金もしていた。毎週給料をもらうと、衣食などの生活必需品にいくら、家賃や学費にいくら、助けが必要な人たちのためにいくらと、用途別に分配した。そして決めた予算内で家計をやりくりした。
このようにして、一介の工員であるライトは、実り多き偉業を成し遂げたのである。目的をもつことがどれほどの力を生むか、少ない資本でも計画性をもって注意深く使えばどれだけのことができるか、そしてなにより、誠実でひたむきな人間が多くの人の人生や行動にどれほどの大きな影響を与えるか、ライトの生き方はその鮮やかな見本である。
金という基準でしかものを見られない人は、金持ちになれるかもしれないが、いつまでたっても人間としては貧しいままだ。富は決して人間の道徳的価値の照明にはならない。
専門的な知的職業に従事している人の成功さえも、身体的な健康に大きく依存しているものだ。
暗号を解こうとしてでたらめな数字を並べるように、自分に嘘をついて根拠のない自信をもつ人もいるが、自信がなく、自分を信頼できないせいで行動ができないのも性格的な欠点であり、これは人の成長を大きく妨げる。成し遂げた功績が非常に少ない人がいるが、その理由は、一般的に試みた行為の数が少ないからである。
自尊心は人が装うことができるもっとも尊いマントであり、なによりも気持ちを高め精神を活気づける糧となる。ピタゴラスの「金言詩」にあるいくつかの格言のなかの一つで、弟子に命じた言葉として「自分自身を尊敬せよ」というものがある。この高潔な自尊心をそなえていれば、肉欲にふけって体を汚すことも、卑屈な考え方で自分の精神を貶めることもない。この考えを日常生活に活用できれば、清潔、節制、貞節、道徳心、信心などすべての美徳がそこに根付く。
だが多くの人が自己修養の結果にがっかりしたり落胆したりしがちである。期待していたほど早く名をあげることができないからだ。こういう人たちは、どんぐりを植えればまたたく間にカシの大木に育つとでも思っているらしい。ひょっとすると、知識を市場で売る商品のように見なしていて、期待したように売れないので打ちのめされてしまうのかもしれない。
しかし自己修養を、人格を洗練させ精神を豊かにする力としてではなく、世間の人々より先んじる手段や知的な気晴らしや遊戯としてしか見なさないのは、自己修養を非常に低い地位におとしめる行為である。
結局、成功というものは知識の有無ではなく、細かい部分にまで配慮し勤勉に勤めることで得られるものであり、成功を勝ち取れなかったからと言って己の不運を嘆き悲しむのは器が小さく心が貧しいことの証である。
金持ちになるより、賢くなるほうがずっといい。
自分に才能があると自覚しているものは、厳しい批判を恐れる必要はない。それよりはるかに恐れるべきは、大げさな賞賛ややたらと好意的な評価である。メンデルスゾーンは、バーミンガムのオーケストラで代表作の〈エリヤ〉を初演するにあたって、批評家でもある友人の一人に笑いながら言った。「さぁ、遠慮なくこき下ろしてくれ。どこが良かったかではなく、どこが悪かったかを聞かせてくれ」
貧困に見舞われても果敢に耐え、障害にも雄々しく立ち向かえるのに、そのあとで、富というより危険なものから誘いの手が伸びてくると、あえなく屈してしまう人は多い。風にコートをとられてしまうのは弱い人間のみだが、弱い人でなくても暖かい陽の光に照らされると、コートを手放してしまう危険がある。つまり、逆境のときよりも幸運に恵まれているときのほうが、より強い自律心と意志が必要になる。
経験を重ねると、障害は正面から向き合えば乗り越えられるものということがわかってくる。トゲのあるイラクサも、思い切ってつかんでみると絹のように柔らかいものだ。「達成できる、達成してやる!」と固く決意することが、目標を達成する際のなにより効果的な後押しになる。したがって、困難に出会ったときは、必ずそれを乗り越えると決意するだけで、困難がいつの間にか消えてしまうことも多い。
究極の貧乏に陥っていようとも、自己修養に取り組んでいる人の道は妨げられない。
エディンバラに住む有名な作家で出版業者でもあったウィリアム・チェンバーズは、エディンバラ市に集まった若者に、貧しかったころの話を簡単に話してきかせ、青年たちを励ました。「いまあなたがたの目の前に立っているのは、独学で学んだ男です。私が受けた教育は、スコットランドの小さな教区学校で受けたものだけでした。エディンバラに来てやっと、はじめて勉強らしい勉強をしました。非常に貧しかったので昼間は働かねばならず、仕事が終わったあとの夜の時間を利用して、神から目生まれた知性の修養にいそしみました。朝の7、8時から夜の9、10時ごろまで書籍商の見習いとして働いていたので、仕事のあとの時間は眠りに取られる以外は勉強の時間にあてていました。小説は読みませんでした。物理学やほかの実用に役立つものを集中して勉強し、独学でフランス語も学びました。これらはいまも楽しく思い出されますし、もうあのような経験をする必要がないのが残念なくらいです。なぜなら、優雅で快適なものに囲まれて居間に座っている今よりも、ポケットに6ペンスさえもなく、エディンバラの屋根裏部屋で勉強していたときのほうが、ずっと満ち足りていたからです」
歴史家のヘンリー・スペルマンは50代になってから科学の勉強を始めたし、ベンジャミン・フランクリンも50歳になってやっと、物理学の研究に本格的に取り組み始めました。ドライデンもウォルター・スコットも詩人や作家として名を知られるようになったのは40歳になってからである。ボッカチオが文学のキャリアを築き始めたのは35歳のときだったし、イタリアの劇作かアルフィエーリがギリシャ語を学び始めたのは46歳のときだった。
正しい道をいくカメは、間違った道を進むウサギに勝つことができる。若者の不器用さは問題ではない。勤勉かどうかが問題なのだ。
国家は子供部屋から始まる。世論は家庭で形成され、博愛精神も一家団欒から生まれるのである。「社会においてわれわれが属する小さな集団を愛することこそが、国家への愛の芽生えである」と政治思想家のエドマンド・バークは言う。
自分の墓ほどしかない小さな土地を耕している人でも、巨万の富を相続したものと同じく、誠実な正しい目的のために正直に働くことはできる。どこにでもある作業場が工業、科学、道徳の学び舎となりうる一方、怠惰、愚行、腐敗を知る場所ともなりえる。すべてはその人個人にゆだねられている。つまり、差し出された善行の機会を活かすも殺すもその人しだいなのだ。
若いころはとくに、仲間を慎重に選ぶことが重要だ。若者たちには磁気のような一体感があり、無意識のうちに互いの似ている部分に同化していく傾向がある。
若者に示すことができる、極めて有効で影響力のある実例の一つが、快活な仕事ぶりだ。快活さは人の心に弾力性をもたらす。不安は快活さがあれば消え、困難に直面しても絶望しなくなる。希望が不安や絶望を引き受けてくれるし、こういう精神の人は、成功の機会をふいにしないという幸せな気質を手に入れるからだ。
奴隷制度廃止運動をしたグランウィル・シャープは、奴隷のために休むことなく活動しながらも、夜になると兄弟の家で合唱や楽器演奏に参加して、歌ったりフルートやクラリネットやオーボエの演奏をしたりして、心と体をいやした。日曜の良いのオラトリアでヘンデルが演奏されたときには、ティンパニを演奏した。また、まれだが風刺漫画を描いて楽しむこともあった。同じく奴隷廃止論者だったファウエル・バクストンもとても快活な人だった。野外スポーツに励んだり、子どもたちと一緒に馬で田舎を駆け回ったり、家庭内で娯楽に興じたりすることがなによりの楽しみだった。
才能は静かに育まれるが、人格は浮世の波にもまれて育つ。
中世ローマの貴族、コロンナ家のステファノは、敵の手に落ち、「さて、お前を守ってくれる要塞はどこにある?」とあざけりの言葉をかけられたとき、「ここにある」と自分の胸に手を当てて雄々しく答えた。高潔な人間は、不幸のさなかにあってもまばゆい光を放って輝き、ほかの人がみなたおれても、高い志と勇気に支えられ立ち上がるのだ。
元首相のディズレーリは次のように述べている。「上を見ない若者は、下を向くようになる。高みを目指さぬ精神には、さもしい卑屈さが生まれる」
本当に礼儀をわきまえている人が示すもう一つのふるまいに、他の人の意見をじっくり聞くというものがある。独断的な態度は、生意気が成長したものにすぎないと以前から言われているが、この独断的な態度の最悪な形が、頑固と傲慢であるとされている。人はそれぞれ意見がことなるということを認め、違う意見がでたら、忍耐と寛容の心でそれを受け止めなければならない。信念や意見は穏やかに述べればいいことで、殴り合ったり、辛辣な言葉で言い争ったりする必要はない。激しい言葉の応酬(おうしゅう)で人間関係にひびが入り、簡単には修復できなくなってしまうこともある。
読んでくれてありがとさん!!